創業200年以上の酒蔵で造られる「鷹ノ目」ー 覚悟を決めて手がけた鷹ノ目の波及効果とは
山口県周南市で200年以上続く造り酒屋、はつもみぢ。Forbul(フォーブル)のプライベートブランド「鷹ノ目」はここで生産されています。弊社代表・平野晟也の「うまさのみを追求した日本酒をつくりたい」との想いを真っ正面から受け止め、高い理想に全力で応えていただいている全国唯一の酒蔵です。
はつもみぢを訪れ、「鷹ノ目」への想いや、これまでの歩みなどについて、第十二代蔵元の原田康宏氏に語っていただきました。
平野から感じた「本気さ」
プライベートブランドを製造してほしいという話はよくあるものの、普段は断っているという原田氏。平野と初めて会ったときも、「この若者は情熱だけで酒を造ろうとしている。最初はうまくいくと思わなかった」と振り返ります。
それでも引き受けた理由は、「本気さ」を感じたから。
「訴え方が真剣だった。ここまで熱い想いをぶつけてくるからには、何かあるんじゃないかと。応援してみようと思ったんです」
▲代表平野が決死の覚悟ではつもみぢ原田社長に日本酒の共同開発を依頼。写真は共同開発が決まった当時のもの。
その日から、プレッシャーとの戦いが始まりました。名だたる全国の酒蔵から製造元として選ばれたということに加え、ひたすら「うまさ」のみを追求したいという平野の願いに敵う酒づくりが、果たしてできるのか……
一方で、理想を求める平野の姿は、酒づくりを始めたころの原田氏自身と重なるものがありました。
「うまい酒を」の一心で酒造りを復活
長い歴史のあるはつもみぢですが、日本酒の需要減を理由に1985年からは酒販業に切り替え、酒造りをしていませんでした。
原田氏は家業を継ぐため、90年代半ばに東京から帰省。利酒大会で5年連続優勝するなど、日本酒の味には人一倍のこだわりがありましたが、それでも酒造りを復活させる考えはなかったと言います。それどころか、「このまま酒販だけ続けていくのも厳しいものがある」と感じ、コンビニや焼き肉などのフランチャイズ店を手掛けることさえ考えていたと打ち明けます。
そんな原田氏の目を覚まさせたのは、地元の酒の危機的状況でした。帰省して10年が経とうとしていたある日、地域ごとの日本酒の消費率などを記したデータを見た原田氏は愕然とします。当時、山口県産の酒の県内消費率は2割ほど。つまり、ほとんどの人は地酒を避け、県外ものを選んでいたということ。
「情けなかった。そういう自分も、県外のお酒を仕入れて売っている。これじゃいかんだろうと。その瞬間に突然、火がついたんです。うまい酒を造って、地元の人に飲んでもらいたいって」
酒造りを辞めて、すでに20年。道具も技術も途絶えたなかでの、ゼロからのスタート。しかも失敗したら後がない決断でした。
あれから16年。試行錯誤を重ね、現在は「原田」というブランドで少量仕込みの純米酒、純米吟醸酒計10種類以上を販売。全国にコアなファンを持つまでになりました。
覚悟を決めて手掛けた「鷹ノ目」の波及効果
そうしたチャレンジを重ねてきた原田氏だからこそ、平野の「本気さ」に感じるものがあったのです。ただ、いいものを造れば売れるというわけではないことも、経験的に知っています。自社生産、自社販売の場合は、コスト面への配慮も不可欠になります。
一方で『鷹ノ目』はForbulのプライベートブランド。
「こちらとしては、造り手としてうまさのみを追求すればいい。逆にいえば、妥協も失敗も許されないということです」
相当な覚悟のもと、2019年から生産を始めた「鷹ノ目」でしたが、当初は味が安定しなかったとのこと。
悩んだ末に思い切って製造責任者を女性に交代させたところ、少しずついい方向に向かい始めました。
原田氏は「酒造りは酵母や麹菌など、微生物の働きによるところが大きく、できることを徹底したなら、見守るしかない。そういう意味では子育てに近いものがあるんです。女性のほうが向いているのかも」と感じています。
決してスムーズではなかった、これまでの歩み。
しかし今では、『鷹ノ目』は高い評価を受け、世界中で飲まれる銘柄となっています。
原田氏は「『徹底してうまい酒を』という平野さんからのプレッシャーが、全体にいい流れを生んでいます。これからも刺激を受けながら、さらにうまい酒を目指していきたい」と話しています。
伝統と革新の中で生まれた新時代の日本酒『鷹ノ目』のさらなるうまさの追求は終わりません。
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Text: Takashi Omura
Photo: Kenzou
Structure: Sachika Nagakane